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衒学衒学ゥ!
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人間
・にしかできない事は何かなんて事を気が付けば話していた。

スキーに行った時の事を話すつもりだったのに。北海道の雪は3月でも細かな粒のまま斜面を撫でていた。山頂は霧の厚い緞帳が引かれ、視界は5m先で終わっていた。人っ子一人見当たらない。
リフトを降りた瞬間からここは誰もいなくてただただ白い、自分の深層心理の世界なのだ。もしくは過去の世界かもしれないが、切り立った斜面は霧に紛れて眼下に潜んでいた。谷側に体重をかけてそろそろと進んだ。綿毛のような雪が斜めに降って鼻の頭を冷やした。無色の景色は澱まず、叫んで誰かに呼びかけたくなった。
どこかでスノウモービルのエンジン音がした。恐らくそれは山々や木々を揺らして反響し、ドロロロロという遠い轟音は意識の薄膜の向こうから聞こえてくる。舞い落ちる雪が音を吸収しているのだ。もうすぐこの牛乳の海のような視界にも黒い染みが揺らめき、白い夢の世界も終わるのかもしれない。過去、ここを滑った人によって雪は谷側に少しずつ押しやられ、ある所でそれは堆積し、エッジが踏み込むとギュウと音を立てた。
どこまで降りたのか解りもしなかった。太陽は白い天井のどこにも見えない。この仄かな明るさは、ただ闇の黒色を薄めたが故の、水墨画のような静かで寒々とした明るさだった。麓はどこだ。スノウモービルの低音が斜面を這いずり回っている。雪と氷とに反響してそこらじゅうに鳴り響き、円を描いて自分の周りを回っていてもおかしくはなかった。

そしてもともと何の為に此処に来たのかといえば、ただ滑り降りる為だけに来たのだ。貨物のようにリフトで山の上に運ばれるのも、この山を越えて別の地に行きたいからという訳では全くない。下へ落ちる為に上へ登り、スピードと重力加速度、どちらも目に見えないものだ、そんな泡沫の感覚を数十分の間堪能する為に高きに登ったのに、霧に包まれてそれも満足に果たせずにいる。麓が近付いたのか、木々やときどき風のように通り過ぎる人々で白い視界に翳りが見え出した。自分はいったい何をしているのだろう。人間は、いったい何をしているのか。スノウモービルの音はいつの間にか消えていた。きっとどこかで、斜面を見誤ってコース外の窪みか何かに落ち込んでしまった人を助けでもしたのだろう。登る事降りる事、どちらも機械なしには出来なくなってしまった。

スノウモービルが吹雪の中で唸りを上げ、白銀の斜面に爬虫類の鱗のような轍を引いて登っていく様を思い浮かべる。一年ごとに機械は進化し、一年ごとに人間の仕事はちょっとずつ無くなっていっているだろう。アマゾンの深緑の森が砂漠に沈んでいくように、それは有限なるものが漸減する事であり、向かう先は無しかない。
誰かがしなきゃいけない事なんだ、と人はよく言う。その誰かは、必ずしも人間である必要はない、という事は、時代と共に増えていくはずだ。人間のする事は、何かを浪費したり、今ある何かを崩して別のものにしたり、つまりはただ斜面を滑っていく事だけになってしまうのだろうか。機械は自然に従順だから、エネルギーを浪費に使う事はない。人間だけが世界の中で、クラスに必ず一人はいたようなはみだし者の役を演じている。

麓は晴れていて、滑り降りてくる人々で都会の交差点のようになっていた。ボーダーがリフト乗り場の近くでザシュッとエッジを立てて減速し、止まる事無くリフトに乗って行った。登りのリフトからはニョキニョキとスキー板やボードが生えて揺れ、まだ靄の残る山の頂上へと吸い込まれていくが、下りのリフトには誰も乗っておらず、空の椅子があとからあとからロープを伝っていた。
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のは、家系なのかもしれない。弟との数少ない(と思い込んでる)共通点の一つが、「電気を点けたまま寝てしまう」事だからだ。あいつにはあいつなりの理由があるのかもしれない。防犯対策とか、目覚めがいいからだとか。しかし自分はもっとしょうもない理由だ。スイッチまで手を伸ばすのが面倒、ただそれだけのために、一昨日も京都議定書に反逆した。
眠くなった時の自分の行動パターンは、冷静に考えるとなかなか興味深く分析欲をそそられる。着ているものはその辺に放り投げる。ただし靴下は番いにする。もし日本にも部屋の中で靴を履く習慣があったら、自分の部屋の壁は今お気に入りのエナメルシューズの踵で冷戦終了直後のベルリンの壁のようになっている事だろう。パソコンはコンセントを引っこぬく。つけっぱなしにするとファンの音で眠れないからだ。読みさしの本も投げ捨てるから、眠気でとろろのようになった意識と相まってどこまで読んだかを確実に忘れ、マンの「魔の山」がいつまで経っても先に進まなかった、もともと進みずらい本なのに。次の日にどんな重大な予定が入っていようが、準備をするなんて事は到底思いつかない。代わりに目覚ましを1時間早くセットする。朝になれば全てがうまくいく、目覚めれば何だって出来ると毎晩思い込むのだ。だって曙光はあんなにも鮮やかに空を埋めていくじゃないか。実際に起きてみると朝日が燦燦と降り注がれていると期待して開け放しておいたカーテンの外はまだ暗く、番いになった靴下が床の上にぼんやりと見え、わざと遠くに置いた目覚ましを止めてから今までの行動を正確に逆再生して人間の体温の残るベッドに戻り、この上なく甘美な惰眠を貪るのである。

欲望の満足は遅れてやってくる。鍋パーティーをしながら友人とそう話していた。人は徐々に満腹になるのではなく、いきなり満腹になる。少なくとも自分はそうだ。しかも遅れて。満腹の直前では、今までの量の倍は食べられるといつも思う。自分の満腹中枢はきっと隣の県にあるのだろう。睡眠欲の中枢もその辺にあると確信している。前者との違いは、日に何度も直通便が出ているという事で、眠くないのは単に移動中なだけなのかもしれない。
この考えはなかなか悪くないが、眠くて仕方がないのでもう続けない。
mainph03.jpg・って、きっとこんな感じに近いのではないか、と思うことがある。
こうやって文を書いたり、人にものを話したり、つまりは何か言葉を作っている時だ。
自分の思い描いている円から、言葉がどんどん外れていってしまう感覚だ。
ブランコに乗っていて、スピードを速めようとする時、小さい頃から訳も解らず下向きに力を入れていく。振動は速く大きくなる。調子に乗って更に力を込める。ブランコは更に大きく振れ、鎖を持っているのが精一杯だ。それでも尚乗り続けて、ブランコは水平近くに達し、自分では何も制御できず、この状況から逃げる唯一の方法は手を離す事だが、そうすると今感じているのと同じ速度で自分が前に投げ出されてしまうことを直感的に感じて、ただ手が白くなるほど、鉄臭さが移るほどに強く鎖を握るしかできない。そんな時の、あっどうしよう、どうしようもない、という傍観者じみた焦りを、言葉を生む時にいつも感じている。
母親は産んだ子供の成長した姿を見るには何十年も待たねばならないが、言葉は発したその瞬間に成長し、行動を始める。野原にぽん、と投げ出した瞬間に膨らむテントのようだ。テントはテントになったらもう動くことはないけれど、風が吹くと荒野の枯れ草のように流れる。言葉を作ることは、嵐の夜のキャンプ場に似ていた。
tamanegi2-400.jpg・たまねぎを切った後の手の匂いを嗅ぐのが好きだ。
この匂いはなかなか持続的で、手を石鹸で洗ったくらいでは落ちない。
だから良い。朝の匂いが夜まで残る。
夜、手を顔に近付ける、それだけで、今朝はたまねぎを切ったのだなあと、朝の記憶が蘇る。
一日、あまりに多くの事を処理すると、眠りに就く頃には今日の始まりの事なんてだいぶ霞みが懸かってしまう、21世紀は昼が長く、人にはする事が多いから。



・たまねぎの匂いがするのが決まっていつも左手なのは、たまねぎを押さえるのがいつも左手で、それは包丁を持つのが必ず右手だからだ。
利き手だけは何十年生きても変わらないものらしい。今までに何度か左利きに自分を変えようと試みたが、全て失敗に終わっている。手を使う動作で毎日行い、かつ最も頻繁に行うものは箸を使う事と字を書く事だが、なぜかこの二つは使用頻度が多くて慣れている筈なのに、ほかのどの動作よりも利き手でない手で行う事が難しい動作である。
このまま一生、利き手が変わらずにいて、このまま一生、たまねぎを切り続けていくとしたら、何十年かの後には、この匂いは表皮の僅かな皺の狭間にまで染み込んで、常に香辛味を静かに放っているようになるかもしれない。

そしていつか死がやってきたとき、誰かが左手を顔の前に持っていき、こう言う。「この人は右利きです。」と。
5dc5c7f2.jpeg・訳有って、ここ数週間で膨大な量の事柄を記憶しなければならない事になった。試験を受けるのだ。



・学生の仕事といったら暗記である。見て覚える人、音読して覚える人、暗記の方法は様々あるが、自分の場合は「書く」という作業が暗記のための作業であり続けている。
ただ本を読んでいるだけでは寝てしまうし、音読するのは恥ずかしい。赤い文字を赤フィルターで隠して、というのも暗記の常套手段だが、頑張って目を凝らすとうっすら見えてしまうのが難点である。ひとたび意識し始めると目を凝らす必要さえなく文字が浮かび上がってくるから不思議だ。
だから書く。ひたすら書く。目で読み取った情報をそのまま別の紙に写す。書いているのは後で見返す為ではないから、関係のない情報を箇条書きで羅列する。アンダーラインを引くのも、今ここで下線を引いて強調しているという事を意識の襞に刻み付ける為だ。
2週間でボールペンを3本使い切る。昔何かの雑誌で、ボールペンで直線を引き続けたら、インクが無くなるまで引ける線の長さは約1kmだった、という記事を読んだような気がする。ボールペン3本分でどこまで行けるか。自分の実家から、通っていた高校までの距離に相当した。自転車で毎朝15分とかけずに登校していた。

・いつか高校の英語教師が言っていた。書け。紙でなく、脳細胞に書け。脳はまるで豆腐のようだが、それはほとんどがグリア細胞というものから成っていて、これは脂肪のようなものであるから柔らかい。そこに書く事は一筋縄ではいかないので何回も書く。時々見返して、捨てる。再び書く。同じ事も書く。20歳を過ぎて死に向かう脳細胞の代わりに、B5の紙が分裂をはじめる。

・図書館の一室で書いていると、どこまでも行けそうな気がする。体はここから動かす事はない。しかし紙の上の端から、左から右へ、時には上から下へ線を引き、下の端までインクで染みをつけ、裏返して同じ事を繰り返すと、もうお終いだ。次の紙に移るしかない。ペンが移動するのは僅かに数十センチ。自分がハムスターになって、終日回し車を回しているみたいだ。この部屋の天井は高く、はるか向こうに本の背表紙の金文字が光る。

・ケルアックのように、どこまでも続く紙に書く事にした。トレーシングペーパーという、聞くだにヴィヴィッドな物は見つからなかったのでファクスの感熱紙を買ってきた。今ファクスを使う人はどのくらい居るのだろう、なかなか心躍らせる機械だと思うのだが、あれは。しかし問題点があって、試験まであと2日強しか無いという事である。気付くのが遅すぎた。4日前くらいにこの発想には思い至ったのだが、ファクスの感熱紙がロール状だという事にはゆめゆめ思い当たらなかった。今日ペットボトルの緑茶を手に取り、そのまま生活用品のスペースに足を踏み入れるまでは。ようやくペットボトルの飲み物を部屋で常飲しようと思った頃だ。
春がやってきたと思う。
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プロフィール
HN:
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1985/11/25
職業:
自由人
自己紹介:
麒麟さんが好きです。
でも象さんはもっと好きです。

やっぱり麒麟さんが好きだ。
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