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・連休明け、僕は後遺症を引き摺り、普段の生活に戻れずに晴れた5月の道をふらふら歩き、空を仰いでいた。
山積みの仕事を小さな机の脇に押しやって「デスヴォイスの出し方」を調べていたのは、そんな倦みによる。

去年の夏あたりから、橡のヘヴィヘタル嗜好もついにデスメタルへの参入を始めたわけだが、デスメタルにつきもののこのデスヴォイス、ただ濁った声で叫べばいいかというとそうでもなく中々に深遠なものなのだ。
生半可な心構えではすぐに喉を潰してしまう。いくら心が象牙の塔での生活から乖離しかけている自分とはいえ、まさか「なあ、俺たちと一緒にデスメタルやろうぜ」と言われる事も無かろう、しかしそれでも世のデスメタラーは1時間も2時間もデスヴォイスを発し続けている事もまた事実である、それが出来るという事は何かのトリックがそこにはあるに違いない。そう思って調べた。

結果からいうと「腹から出せ」「喉を締めるな」「練習しろ」との事であまり実りはなかった、いや有ったというべきか、机の脇にあった小高い山を自分の前までツツと持ってくる気になったのだから。連休は終わった。

ちなみに最近は「びちゃびちゃしたデスヴォイス」が好きだ。Cradle of FilthやDimmu Borgirのような。巨大な水滴がフラットで硬い平面に落ちる時に立てる音の様な声だ。Dimmu Borgirは世界観も良いのでかなり好きだ。Wikipediaには「ノルウェー国王の前で演奏した事もある」とか書いてあるけど本当かな?本当だったら北欧の音楽文化みたいなものがちょっと不安になる。
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・に、近づける気がする。Ubuntu 7.10の起動音を聞いている時だ。

Ubuntuとは、パソコンのOS (オペレーティングシステム)の事である。OSといえばWindowsかMacで、所属する所で一大勢力なMacに反発して長年慣れ親しんだwindowsに執着する自分が、ふとしたきっかけからLinuxユーザーに変わったのは数日前。ふとしたきっかけとはなんとなくカッコよさそうだったから、という、またここで直ぐ形から入りたがる悪い癖が出てしまったがカッコいいものに囲まれるのは何となく幸せな気分になれるものである。きっと長生きができるだろう。
しかし、ここ数日は言うことを聞こうとしない無線LANの設定に手を焼き睡眠時間は大幅に削減された。寿命もきっと縮んだはずだ。こうしたバランスのおかげで、人間の寿命は急に長くなったりする事が無いのだろうな。

Ubuntuのよい点は動作が軽い所だ。今使っているパソコンは今年で数え年5歳となり、犬なら古いモップのような毛を引きずって膝をガクガクさせながらそこらを歩きまわり悲しげな声で時々鳴くような年だ。犬の寿命がどれくらいかは知らないが、このパソコンのファンも同じような音でときたま自分の機能を久々に思い出したように鳴く。そんな我がパソコン翁でwindows時代はネットを見ながら同時にAdobe reader、Word、excelを使い、偶にはPower Pointがそれに加わり、すべての作業をMedia Playerでひっきりなしに音楽を聞きながらやっていた。通気口からは常に熱風が吹き出し、筐体は卵の白身が固まりそうな程に熱くなった。まるで「フランダースの犬」の冒頭に出てくる、パトラッシュに辛い仕事を負わせるアイツみたいな事をしている。それならubuntuはネロだ。コンピュータに詳しい友人が言っていた、パソコンの寿命はだいだい5年と見ておいていい、と。我が翁とubuntuも、最期は抱き合ったまま眠るのだろう。

UbuntuはWindowsと比べて使いやすいか?分からない。分からないし、分かった頃には慣れている。人間は状況に適応できる。温暖化にも慣れていくはずだ。どちらにしろ、ブート中の操作ミスでwindowsは消えたから後戻りは出来ない。ハードディスクをいくつかの部屋に分けて、その一つにubuntuを住まわせようとしたのが間違いだった。もともと一つでつなぎ目も壁も無いものなのだ。地球のように。そこがどんなに熱くなろうと、ハードディスクにへばりついて生きるだけだ。

スタンバイやスリープが上手くいかなくてフリーズする。眠る事が出来ない。眠い。シャットダウンで一日を終わらせる。意識を、カーテンを、ディスクの回転を、現実を・・・
mainph03.jpg・って、きっとこんな感じに近いのではないか、と思うことがある。
こうやって文を書いたり、人にものを話したり、つまりは何か言葉を作っている時だ。
自分の思い描いている円から、言葉がどんどん外れていってしまう感覚だ。
ブランコに乗っていて、スピードを速めようとする時、小さい頃から訳も解らず下向きに力を入れていく。振動は速く大きくなる。調子に乗って更に力を込める。ブランコは更に大きく振れ、鎖を持っているのが精一杯だ。それでも尚乗り続けて、ブランコは水平近くに達し、自分では何も制御できず、この状況から逃げる唯一の方法は手を離す事だが、そうすると今感じているのと同じ速度で自分が前に投げ出されてしまうことを直感的に感じて、ただ手が白くなるほど、鉄臭さが移るほどに強く鎖を握るしかできない。そんな時の、あっどうしよう、どうしようもない、という傍観者じみた焦りを、言葉を生む時にいつも感じている。
母親は産んだ子供の成長した姿を見るには何十年も待たねばならないが、言葉は発したその瞬間に成長し、行動を始める。野原にぽん、と投げ出した瞬間に膨らむテントのようだ。テントはテントになったらもう動くことはないけれど、風が吹くと荒野の枯れ草のように流れる。言葉を作ることは、嵐の夜のキャンプ場に似ていた。
tamanegi2-400.jpg・たまねぎを切った後の手の匂いを嗅ぐのが好きだ。
この匂いはなかなか持続的で、手を石鹸で洗ったくらいでは落ちない。
だから良い。朝の匂いが夜まで残る。
夜、手を顔に近付ける、それだけで、今朝はたまねぎを切ったのだなあと、朝の記憶が蘇る。
一日、あまりに多くの事を処理すると、眠りに就く頃には今日の始まりの事なんてだいぶ霞みが懸かってしまう、21世紀は昼が長く、人にはする事が多いから。



・たまねぎの匂いがするのが決まっていつも左手なのは、たまねぎを押さえるのがいつも左手で、それは包丁を持つのが必ず右手だからだ。
利き手だけは何十年生きても変わらないものらしい。今までに何度か左利きに自分を変えようと試みたが、全て失敗に終わっている。手を使う動作で毎日行い、かつ最も頻繁に行うものは箸を使う事と字を書く事だが、なぜかこの二つは使用頻度が多くて慣れている筈なのに、ほかのどの動作よりも利き手でない手で行う事が難しい動作である。
このまま一生、利き手が変わらずにいて、このまま一生、たまねぎを切り続けていくとしたら、何十年かの後には、この匂いは表皮の僅かな皺の狭間にまで染み込んで、常に香辛味を静かに放っているようになるかもしれない。

そしていつか死がやってきたとき、誰かが左手を顔の前に持っていき、こう言う。「この人は右利きです。」と。
教師
・一昨日は、体育教師になってから初授業の日の朝、
巨大なシリンジ(注射器)の使い方を教える練習をする、
という夢を見た。
先輩2人の前でM60ほどの大きさのシリンジ(もはや凶器)
の使い方を説明しながら実演していたが、
最も興味深い説明内容はあいにく無音だったので聞き取れなかった。



・昨日は、アフリカ人に透過型電子顕微鏡の使い方を教える、
という夢を見た。
今度は音付きだったが、 "at the third floor. (3階にあるよ)" と
言った所で目が覚めてしまい、本当に説明したのかどうか、
真相は朝の光に消えてしまった。
それは使い方でなくて場所だ。


・明日は誰に何を教えるのだろう。
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