忍者ブログ
「 心理学 」
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・中学の時同じクラスだった人の中で、いまだに毎年運動会やってるのは自分くらいだと思います。 数年したら、子供の運動会に出る人がいそうだ。 ・年々緩やかに衰えていく元陸上部だった自分の全力時における体力に直面するのも恐ろしいのだけど、何が怖いって普通の20代30代が一触即発になるのを見るのが怖いです。
PR
・ちょっと自分の事を話させてもらうと、実は大学で生物系の研究みたいな事をしていて、何か生物系の研究する人って概して研究に費やす時間が長めなのは何でだろう、と思っている。
単なる印象だし、他の分野の研究やってる人にそうたくさんは話を聞いたわけじゃないし、それよりなにより世の中にはありとあらゆる性質の人がいるので、そう簡単に一般化する事はできない。だから自分の事だけ話すようにしよう。

自分は研究に費やす時間が長い。相対的に長いのではなくて、自分で「うーん、ちょっとやりすぎかなあ」と思うから長いんだと思う。
ただ研究に費やす時間、というと曖昧だから、「研究室にいる時間」とはっきり決めてしまおう。
どうしてこれが長くなるのかというと、

・つい欲張ってあれもこれもやってしまう

・遊んでばかりいる

からだ。


特に後者は、しゃきしゃき動いて仕事を片付ければいいものを、遊んだり、惚けてみたり、お菓子を食べたり、ブログを書いたりしているから遅くなる事は明確だ。

よくある「残業しない方法」みたいな本を読むと、そういった無駄を切り詰めて仕事の効率を上げ、さっさと帰る簡単な方法が列挙されていて、なんだか自分もすぐできるような気になってしまう。
しかし、実際しゃきしゃき働いてみると疲れてしまって続かない。

効率を上げる、という事が、今の社会では凄く良い事だと捉えられていて、非効率という事は、それだけで逮捕されそうなほど悪い響きを持って人々の耳に入るのだが、効率が良いという事による不利益というのはある。疲れるという事だ。
「疲れるのは、仕事をずっと続けているからだ。メリハリをつけてやれば疲れない」という意見もある。しかしメリハリをつけて仕事をする事が、のんびり仕事をするより疲労が少ないという事はないと思う。
昔陸上をやっていたのでそこから譬えをもってくると、高校の部活ではサーキットトレーニングというものをよくしていた。
これは例えば最初の1kmを全力で走って、次の1kmは歩くようなスピードでゆっくり走り、また次の1kmは猛ダッシュする・・・という事を何度も繰り返すトレーニングである。
メリハリ、という言葉を聞くとき、この練習の事をよく思い出す。なぜ思い出すかというと、もの凄く辛いからだ。1kmが競技場のトラック半周、つまり200mになっても辛い。ジョギングしていてスタートラインに戻ってくるとその度に泣きそうになる。
メリハリのある生活も考え物である。


・ここまで書いて、何てダメな事を力説してるんだろう俺は、と悲しくなってきた。しかしその一方で、社会(うすぼんやりした存在だ)は何かと効率を上げよう、上げようと必死になりすぎていて、それに少し興醒めしてもいる。メリハリのある生活、効率よく次々と仕事を片付けていく生活は、充実感を与えてくれるかもしれない。でもただの「疲労感」を、無理やりに、時には無意識のうちに、充実感だと解釈してしまう事がないだろうか。少なくとも自分にはよくある。

忙しさにかまけていると見落としてしまうものが多いとか、のんびり歩いた方が遠くまで見渡せるとか、そういう利益にまつわるからではなくて、ただ楽しくやっていければそれでいい、という甘い気持ちを窘められはするけれど、生活が嫌になる事はあまりない。
・深夜コンビニに入ったら、男性週刊誌をもの凄い勢いで捲る人がいた。 よく「1ページ1秒で読めるようになる!速読メソッド」とかいう本が平積みにされていたりするが、この人は1ページ1秒なんて遅さじゃなかった。蛍光灯の下、カラーグラビアの薄い紙が次々と旗めき、それを彼は僅かに首を左右させて見送りながら、右手を横にずらせては紙を捲き上げる作業を繰り返していた。 週刊誌は薄いから、そんなに生き急いではものの1分で1誌が終わってしまう。持っていた雑誌を見終わると、躊躇う事なく次の雑誌をラックから引き抜き、同じペースを守って音速で捲りだした。表紙の煽り文句を読んで品定めとか、手の迷いとかは全くなしだ。 橡がレジで会計を済ませてもまだやっていた。きっともう5誌は読破していただろう。帰りがけに何気なく中を覗くと、芸能人カップルの激写記事だった、が、それも一瞬で消え、水着グラビアのコーナーに差し掛かっていた。彼の表情筋は微動だにせず、首だけが絡繰り人形のように左右に揺れていた。はたして、悟りを開いているのか、煩悩に塗れているのか、判断が難しかった。
・学校のコンビニでファックスを送信しようとしていた。

書類を提出します、という連絡はメールでして、実際の書類はファックスで送るというシステムには首を直角になる位に傾げたくなるが、そこはきっとあれだ、日本人は印が好きだから。
押印の欄に並ぶ、すべて30°右に傾いだ自分の判がその疑問を代弁してくれそうな気がした。
それにしても、このハンコが傾く癖はどうにかならないかな。朱肉が乾いているので全体重を印鑑に乗せて腕をプルプル震わせながら判を押して、息を切らしながら印鑑をそっと持ち上げた時のがっかり具合といったらない。

・今日中に提出しなければならないのに、今日はあと30分しか残されていない。夢の扉のように明るいコンビニにさっと滑り込みファックスの機械の前に仁王立ちになる。ここまで5度も暗誦したファックス番号を目にも止まらぬ早さで叩くと、発信音が店全体に響いて首を竦めたくなった。

お、相手が受信したようだ。よく23時すぎにファックスなんか受け取れるな。かくいう自分も、なんで23時すぎに学校に居るんだ。日本は真夜中で、渋谷とここで時差はない。

エラー音が鳴る。紙を3ミリ噛んだまま、機械は店の外までビープ音を届けている。ヨウシサイズカクニン?A4の紙になんて口の聞き方なんだろう。
店員に事情を説明してもう一度送信する。同じ事が繰り返され、紙は2ミリしか噛まなくなり、やっぱり用紙のサイズを確認してほしいらしい。わかったけど、音が大きすぎる。ほらやっぱだめじゃないか、という抗議の意味もこめて今度は音を鳴らしっぱなしにする。自動ドアが開いて、店員は元気よくいらっしゃいませー!と答えた。自分で来い、という事か。

電話番号、ホントに合ってますかあ?とか、きっと24時間対応してないんすよ、とか言う店員にはつとめて意識を向けないようにして3度目を試したがダメだった。電話番号は合ってるし受信もしているはずなのだ、だってオマエ送信しようとしてるじゃんか。

諦めて雑誌コーナーに向かうと、いつも立ち読みしている旅雑誌や芸術系雑誌の区画はゴシップ雑誌によって陥落していた。今日は3日か。
3の倍数の日だけアホになるコンビニなのかもしれないと思って何も買わずに店を出た。お陰でお菓子の誘惑に負けずにすんだ。財布とお腹に優しい。アホにはアホの優しさがある。
のは、家系なのかもしれない。弟との数少ない(と思い込んでる)共通点の一つが、「電気を点けたまま寝てしまう」事だからだ。あいつにはあいつなりの理由があるのかもしれない。防犯対策とか、目覚めがいいからだとか。しかし自分はもっとしょうもない理由だ。スイッチまで手を伸ばすのが面倒、ただそれだけのために、一昨日も京都議定書に反逆した。
眠くなった時の自分の行動パターンは、冷静に考えるとなかなか興味深く分析欲をそそられる。着ているものはその辺に放り投げる。ただし靴下は番いにする。もし日本にも部屋の中で靴を履く習慣があったら、自分の部屋の壁は今お気に入りのエナメルシューズの踵で冷戦終了直後のベルリンの壁のようになっている事だろう。パソコンはコンセントを引っこぬく。つけっぱなしにするとファンの音で眠れないからだ。読みさしの本も投げ捨てるから、眠気でとろろのようになった意識と相まってどこまで読んだかを確実に忘れ、マンの「魔の山」がいつまで経っても先に進まなかった、もともと進みずらい本なのに。次の日にどんな重大な予定が入っていようが、準備をするなんて事は到底思いつかない。代わりに目覚ましを1時間早くセットする。朝になれば全てがうまくいく、目覚めれば何だって出来ると毎晩思い込むのだ。だって曙光はあんなにも鮮やかに空を埋めていくじゃないか。実際に起きてみると朝日が燦燦と降り注がれていると期待して開け放しておいたカーテンの外はまだ暗く、番いになった靴下が床の上にぼんやりと見え、わざと遠くに置いた目覚ましを止めてから今までの行動を正確に逆再生して人間の体温の残るベッドに戻り、この上なく甘美な惰眠を貪るのである。

欲望の満足は遅れてやってくる。鍋パーティーをしながら友人とそう話していた。人は徐々に満腹になるのではなく、いきなり満腹になる。少なくとも自分はそうだ。しかも遅れて。満腹の直前では、今までの量の倍は食べられるといつも思う。自分の満腹中枢はきっと隣の県にあるのだろう。睡眠欲の中枢もその辺にあると確信している。前者との違いは、日に何度も直通便が出ているという事で、眠くないのは単に移動中なだけなのかもしれない。
この考えはなかなか悪くないが、眠くて仕方がないのでもう続けない。
HOME → NEXT
忍者ブログ [PR]
 △ページの先頭へ
Templated by TABLE ENOCH