忍者ブログ
「 心理学 」
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・夜の交差点、向こうから渡ってくる人をひらひら躱しながら、
なんか忘年会って感じしないなあ、来週あたりからなんじゃない?
という会話に、なるほど確かにそんな気はしないと肯いていたが、
横断歩道を渡りきると、サラリーマンが蹴り合っていたので、
やっぱ忘年会シーズンか、そうっすね、という見解で大団円を迎えた。



・ここは個室で、背中側も前も壁で仕切られている。
会話だけが御簾の向こうの月のように漏れ出ずる、
のは普通の状況であって、酒がその場にあると状況は異常になる。
こっちも大声で喋り、笑い声もけたたましいにも関わらず、
会話は一字一句漏れなく聞こえてくる。それがあんまり可笑しいので
火種になり、姦しさは加速し、夜も更けていくのも止まるようだった。
ばかやろう、このやろう、なに言ってんだ、
声は紛れも無く壮年の女性、女性に壮年という言葉は不適切かもしれないが、
その言い回しはまさにオヤジのそれで、やっぱり壮年と呼びたい。
幼時は男女の区別がつき難いが、年を取ると再び性差は狭まるのだろうか、
背中の向こうが非常に気になり、覗きたい、あそこに頭は嵌らない、
ケータイのカメラならいけるか、いやシャッター音が、
聞きつけたらあの勢いで罵倒されるぞ、それは泣く、
間違えて入った振りすれば、それいいな、
しかしアルコール条件下における記憶の保持は極めて脆弱で、
別の話題で笑いが大火災を起こしているうちに、忘れていくのだ。
ここにしかない世界、この時間だけの世界、
酒や、そして恐らくドラッグも、それを創り出す力がある、
それは異常な事だと思う。
PR
・この前あんな内容の日記を書いた手前、更新しなくては私は死んだ事になってしまう。

忘れていたなんて言ったら格好悪いから、一回死んで、上野と高田馬場で買い物をしてから生き返った、という事にしておこう。
そう、上野は黄泉の国。朝はそこかしこに死のにおい。



・最近、映画をヒロインで観ている。気がつくとそういう指向性を持ってレジに向かっている。
昨日レンタルしたのは「エリザベスタウン」(2回目)と「ベティ・ブルー」(同左)だが、この選択がキルスティン・ダンストとベアトリス・ダール目当てである事は明らか、であるのだが出来れば見破らないで欲しかった。


そしてこの「暗い日曜日」である。
この映画にも、エリカ・マロジャーンというミューズがいる。
この人はなんて艶やかに憂うのだろう。悲しみが美しいなんて御託が罷り通るのも無理はない。

内容は、エリカ・マロジャーン扮するイロナを巡る三角関係、と思ったら友情の物語になり、舞台が40年代のハンガリーなのでナチスによる搾取があり、それを巡る人間と死と悲しみがあり、最後はミステリーに収束してゆく。
この文だけ見るといろいろ詰め込み過ぎて内容は今ひとつ、と思うかもしれないがこの映画に関して言えばそんな事はない。きちんと纏まっているし、人間の日常というのは大体が詰め込み過ぎなのだ。恋愛と仕事と世界情勢に同時に悩む日だってあるだろう。



・心は2.5次元だ。2次元と3次元の間で常に揺れている。空間全体を見ているつもりでも、実はその空間の一つの断面にしか目が行かない事がある。

ちなみに最近2次元という沖に流され過ぎているきらいがあるのでなんとかして3次元に泳ぎ帰りたい。


海はぬめぬめする。きっと生命がいるからなのだろう。
「暗い日曜日」という映画を観た。

ハンガリーで昔作られた、同名の歌がテーマ。
この歌は自殺を誘う曲として知られ、
記録は残っていないものの多くの人がこの曲を聴いて命を絶ったとか。

ここに書くことを考えながら、暗い日曜日を聴き続けていたら、
気分が欝いできたので書きたかった事は明日に回す。
生きていたら。
囁き
・某「黄色い看板」のラーメン屋に行ったら、目の前でシャッターを下ろされた。 
時計を見ると、ラーメン屋はこれからが稼ぎ時じゃないかと思える時間だ。
飲み会後によく感じる、ラーメンへの渇望を釣り上げる事はラーメン屋の使命に近いと考えていたのだが。
やるせなさ、駅までのだらだらと続く道をただ戻るしかなかった。


 ・鍋が自慢の居酒屋の前で、数人の男女がたむろしていた。
4人くらいいてお洒落な見目形だったが、全員メガネを掛けていた。 

さぞかし闇鍋ライクな気分を味わえた事だろう。
そして時に、箸と箸がぶつかって「あっ、、、」とか。 
と妄想したが、普通は鍋に直接箸を入れる事はない。
育ちの悪さが露呈してしまう。見るな!


 ・雨の降る朝、いつもの電車、
いつもと反対側の景色を見ると白い列車が並走していた。
 列車の側面、扉の左上あたりには、行き先を告げる小窓がある。
雨粒とガラスの向こうに見えた小窓では、ルーレットのように行き先が変わり続けていた。 

大変だ。
あの列車はどこへ行く気なのだろう。
あんなに沢山の、忙しそうな都会の人々を乗せて。
車掌が迷っているのか、運転手が迷っているのか、犯人が迷っているのか、戯れか。
 いつもの駅に着く。朝の雑踏と、幾重にも並ぶホーム。
その向こう、白い列車が尾をひく。 


・夢を見なくなった。
芝居で場面が変わるように、夜が終わり朝が始まる。
眠りは暗転。音も無く光も消える。 
開けっ放しの窓から入る蚊。その羽音、静寂を震わせ惰眠を乱す。
昔の記憶に、羽音を聞いたら寝返りを打て、というのがあった。
ごろん。弾みを付けて寝返る。空気がすこし軋んだ。 
暗転で場面が変わるなら、夕べと今朝では何かが変わっているはずだ。
日付は変わっているだろう、いや最近は変わる事が少ないが。
背景も大道具も変わりはしない。 
シーツを改めて、枕のそばの黒い点を見つけた。
どうやら寝返りは効果が有ったらしい。
そしてこれが、唯一つの目に見える変化だ。
・いやあ、ほんとに良い子なんですよ、しずかちゃん。


Date: 2007年04月22日 11:17

・先日すり潰したマウスの脳は、5種類くらいの溶液で抽出・分離されて零下20℃で眠っている。話は「ドラえもん[恋愛編]」を買ったという所からリスタートする。



・この本は恋愛に関わるドラえもんのエピソードを綴るというコンセプトの下、21編が収録されている。「のび太・しずか編」15編、「のび太のパパ・ママ編」2編、「ドラえもん編」4編から構成されている。


ドラえもんの話の常套として、「のび太が困る」→「青狸に泣きつく」→「22世紀の道具」→「ちょっとの間はうまくいくけど、最後は全てが台無しになって終わり」というフレームがある。全体の95%くらいはこの通りに話が進むのではないだろうか。
そこに恋愛が絡もうが(ドラえもんの世界で恋愛というのも一種おかしな話だ)このフレームがブレる事はあまりない。例外を挙げるとしたら「のび太の結婚前夜」くらいだろう。尤も、この話も最後はしっかりオチていて、ただの感動譚になっていない処が素晴らしい。


それにしても22世紀のひみつ道具は反則的だ。こんなものが普通に流通し、ただの居候のロボットにも買えてしまうほど民衆に普及していてよいのだろうか。この年でこのマンガを読むと、あの世界のユートピア性ばかりが目について手放しで羨ましがれなくなってしまう。

例えば「のび太のおよめさん」の冒頭では、のび太が(小学4年にしては殊勝なことに)こんな不安を口にする。


のび「もしも、ぼくにだけおよめさんのきてがなかったら、どうしよう。」
ドラ「おい、本気でそんな心配してるの?」


いやこれ最近頻繁に思うんですよ。もう社会が当分広がらないような気がして、そんな所で相手は見つかるのか?とか。しまったこれは個人的な話だった。
とまあ、のび太の結構普遍性のある悩みに対して、ドラえもんが出した解答はこうだ。


ドラ「そんなに気になるなら、みにいってきたら?」
のび「みにいくって・・・・・・、なにを?」
のび「えっ、タイムマシンでぼくのおよめさんを?」


それができないから皆悩むんだろうが。嘗めるな青狸。でもこのマンガではこんな会話は自然に聞こえるから不思議だ。まあ机の抽斗がタイムマシンになっているくらいだからな。
でも本当に未来の伴侶を確かめに行けるとして、見に行きたいと思うだろうか。ドラえもんにおける時間移動と運命決定論についてはまたの機会にまわすことにしたい。長くなるから。


タイムマシンとは違うが、未来の恋人を見ることの出来る機械(ほんと、中高生の男子群が考えそうなどうしようもない機械だ)が出てくる話もある。
スネ夫から学校一の美人と、大人になったら結婚するという話を聞かされたのび太。ませた発言とするスネ夫をジャイアンと一緒に茶化す(この構図はなかなかレアだと思う)が、「人生にはそれくらいの計画性がないとだめなんだよな。」と見事に反駁されてしまう。影響されやすいのび太(まるで自分を見ているかのようだ)は、家に帰るとすぐにドラえもんに注文をする。


のび「ぼくの身のまわりで、これから・・・・・・二十五歳くらいまでの間にあらわれる女の子を全部知りたいんだけど、そんな機械ない?」
ドラ「かわったちゅうもんだなあ。」


これはちょっといいぞ。あと4年後までなら知りたい気もする。
ところで、22世紀の科学力は時空一なので、こんな都合のいい機械は当然存在する。将来知り合う女性の写真が様々なデータと共に打ち出される「ガールフレンドカタログメーカー」を取り出すドラえもん。「のび太のおよめさん」で実際に見てきたように、のび太は将来しずかちゃんと結婚するはずなので、当然ドラえもんは不思議がる。


ドラ「タイムマシンで見てきたろ。」
のび「だって未来は、かわることもあるんだろ。」
のび「結婚は一生のことだからね。あとからちがう子を知ることだってあるし・・・・」


「未来は変わることもある」って何かダメ男のいいわけっぽくてさすがのび太といった感じだが、「あとから違う子を知る事もあるかも」とは確かに思うこともある。思考レベルがのび太に近いことに少しショックを受けた。

でてきたリストの中から特に好みの2人をピックアップし、その子を早速見に行くのび太だが、2人目の子から「遅刻記録、立たされ記録」でほかの学校にまで有名だと聞かされ、ジャイアンとスネ夫に「ぼくのいいひょうばんをながして」と頼み込む。それに対する2人の返答は、なかなか教示的で読む目を思わず止めてしまった。


ジャイ「おまえ、そこがずうずうしいってんだよ」
スネ「自分がどんな男か考えてみろ。」
ジャイ「頭も悪い、顔も悪い、スポーツもなんにもできない。よりごのみできる身分か。」

ジャイ&スネ「「もし、おまえでもいいからよめになってやるという人がいたら、ありがたくきていただくべきだぞ、女でさえあれば。」」


その後しずかちゃんに「うわきしてごめんなさい」と謎の土下座をするのび太だが、ここまで言われるのは彼くらいなものだ。
逆にいえば、普通はここまで言われる事は無いからのび太のように目が覚めぬまま過ちを塗り重ねている事が十分にありうる。


のび太がドラえもんにすがるとき。それはジャイアンやスネ夫やママという外からの圧力だけにその理由があるのではない。
しずかちゃんが出来杉とばかり仲良くしてて自分は嫌われるのではないか、あのまま出来杉と結婚するのではないだろうか、こんなできの悪い、いつも0点ばかりとっている自分は、しずかちゃんとは釣り合わないだろう、自分と一緒になったら、しずかちゃんは必ずや不幸になる・・・という内なる懊悩に、つねに取り憑かれている。
それは、一見万能に見えるひみつ道具をもってしても、結局は解決できない問題だ。なぜなら、外に対して何をどう働きかけようと、そこに原因は無いからである。
そんな一人芝居は、コマ割りの向こうから眺めれば滑稽だが、時々その中に、自分の似姿を拾う事がある。細かい網にもがく自分を。ぼくらはみんな病んでいる。
PREV ← HOME → NEXT
忍者ブログ [PR]
 △ページの先頭へ
Templated by TABLE ENOCH