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「 心理学 」
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・書いている事が若干おかしいのは躁の副作用です。


Date: 2006年11月21日 00:31

・このごろずっと躁状態が続いている。
医学的に躁と言えるかどうかは医者では無いから解らないが、気分の異常な(まあ、もとが根暗だし)高揚というのは確かにある。
なんとなく急いている。息巻いている。生活に加速度を感じる。

充実しているといえば聞こえはいいだろう。焦燥を充足と勘違いしているだけかもしれない。錯覚したままのほうが良い事があるのではないか、とも思える。もしくは自ら勝ち得た充実なのか。

可能性ばかり提示する毎日には厭きた。可能性を挙げるのは現実や運命の十八番だ。それで運命は微笑んだか?

ドラえもんの電源スイッチは実は尻尾にあって、そこに製作者の残酷さを感じてしまう。ドラえもんの手は尻尾に届かないからだ。

訳の分からない模様が3Dになって浮かび上がってくる、という本と格闘していたときだ。幼い自分はこの悪魔めいた砂場に似た模様を知っていた。テレビの砂嵐。

あの砂の一粒はどこから現れてどこへ消えるのか。そもそも現れたり消えたりを繰り返すものなのだろうか。

タロットカードは愚者から始まる。運命は見届けられる。終わりは世界。完成と終末。一周するだけだ。

手を伸ばすことは出来ない。スイッチは切られることが無い。砂嵐が大地を照らす。
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・「傘がない」の歌詞が日記に出てきたのは2回目。よほど好きらしい。いや好きですよ陽水様。


Date: 2006年11月15日 23:18

・都会では自殺する若者が増えている。

だけども問題は今日の雨、傘が無い…と言いたいのを堪えて駅から足早に家に帰り、最近頻発する自殺について考えてみる。


頻発する、と書いたが本当にそうなのだろうか?
確かに最近その手の報道ばかりだ。でも別に同じ学部の人が毎日のように自殺しているとかそういう事は無いので推測するしかない。
考えられる可能性は次のものがある。

・本当に若年層の自殺が最近頻発している。

・例年と数自体に差は無いが、報道する量が増えた。

・絶対数にも報道の量にも変化は無い。しかし、他に目を引くニュースがないので(それか、いじめという言葉がいやにセンセーショナルに響くので)自殺が多くなったように錯覚している。

あまりニュースを見ないので3番目の可能性も決して否定できない。報道の過剰、というのはよく体験する事だし、いじめが社会的にクローズアップされるのは数年周期であると感じる。
銃の無い日本ではどういう方法をとっても自殺を思い立ってから執行まで一瞬、というわけには行かない。そんなに絶望した人間の割合って多くないだ ろう、と思う一方で、本当にいじめが陰惨で苛烈になり、死にたくなるのも無理は無い、と相手に思わせてしまうような人外魔境に行き着いたのか、とも考えら れる。



・ずっと昔。訳のわからない体に過激な思考を押し込めていた頃は、
「サディスト?ただの人格破綻者じゃないか」
と考えていた。サイコパスだとか猟奇殺人について読んだり聞いたりしていた時のことだ。
今はそんな風には思えなくなった。他人を責め立てる事は楽しい。それは認めなければならない。
人の心に爪を立て、苦痛の喘ぎを横目にその生皮を剥いでいく時、脊髄を揉まれるような快感が迸る。

良心がその快楽を咎めるだろう。憎む事は簡単だ。しかし、快楽に耽溺する事は更に簡単だ。恍惚の海に浴する。もっと深くまで潜っていこうとする。もう二度と浮かび上がって来られないのも知らずに。
息が出来なくなるから、今の自分の状態から目を背ける。そんな人々が他人を苛む。恍惚の海、底の住人。
・なぜか反響が多かった。


Date: 2006年07月13日 23:12

・人がみてなきゃ、とよく人は言う。
日本は伝統的に「恥」が「罪」に先立つ社会であり、今でもそれは変わらないと思う。
旅の恥はかき捨てだとか、人に迷惑がかからなければ何しても良い、とか、良い悪いは別にしてそういった考えは決然とそこにある。
誰も見てないよ。誰も気にしてないって、お前の事なんか。

ところが、自分にはこういう「内なる声」が全く聞こえてこない。
倫理的な問題ではない。自意識過剰でもない、まあちょっとはあるのかもしれないけれど、主要な理由ではない。
何故かって?他人を観察してしまう人間だからさ。

俺は見てる。俺は気にしてる。だから「お前の事なんか誰も気にしてない」とはとても思えない。
嘘を確信犯的につく人間は、絶対に他人の言葉を信用しない。信用しないというより、出来ないのだ。
人間というのは、自分の考えている事が他人のとは必ずしも一致しない、とはどうしても思えない性質をもち、そこはどれほどの着実で入念な教育も手の届かない所である。

街はありとあらゆる人間のサンプルを抱え込み、他人に無関心でいようとしたら目(感覚器として、ではなく、概念としての)または心のうち、少なく ともどちらか一方は閉じてしまわないと、とてもいられない。いや、無関心であろうとはしている、というと意識的に人間への興味を排除しようとしているよう で語弊があるなあ。もともとそんな知らない人の事まで代謝できるほど心に余裕が無い、とでも言っておこう。

しかし街では他人の情報が滝壷に落ちる水のように流れてくる。読んでいる本のページを追いかけてしまったり、嵌めている指輪の石の種類から誕生月 を推理したり、ヘッドフォンをつけている頭と、それがくっついている体のリズムの取り方から聴いている音楽の種類を予想したり(地下鉄に乗る人は、それが トランスやテクノである場合が多い。)、話の筋から今後1週間くらいのその人の動向に無駄に詳しくなってしまったりする。



煩悩。柴刈りから帰ってきたお爺さんのようにそれを背負っている。
朝、学校の構内のとある場所に猫が寝転がっている。この前までは横の縁石に寄りかかっていたが、最近は小道の真中にいる。「一休さん」に出てくる例の立て札が有ったら、明朝一番踏まれてしまいそうだ。
眠たそうに開いた目蓋が見せる(全く、猫って眠たそうにしていない時を見た事が無い)、あの細い瞳孔には、およそ人間なんぞ、映ってはいないのだ。他者も、時間も、名前も届かない場所。猫はひっそりと、あちらとこちらの世界を行き来している。

そういえば、猫のいる家で人が亡くなったら、その枕元に刃物を置いておく、と聞いた事がある。猫が死体を動かすから、らしい。まったくもって、この世界には煩悩のつけいる隙も無いということかニャー。
・もういいですよーだ。Mで。


Date: 2006年06月29日 00:49

・今日は早く寝て明日早く起き、朝からレポートを書こうとした。
でも予定というのは、傷つけ合う為に出逢ってしまう恋人のようなもので(なんじゃそりゃ)、壊され破られる為に立てられると言っても過言ではない。
つまり、飲んでしまったということだ。眠い気がするけれど寝る気がしない。どうしようも無い。



・今日は見事「ドM」の称号を賜った日だった。いや、時々言われる事なのだが。
確かに自分にとってなるべく辛い状況・状態であることを常に望んでいる節はある。わざと困難な状況を作り出したり、自分を苦しめたりする。
自分にとって好都合な状況が続いてしまうと、もう駄目だ、もう堕落してしまうと思ってしまう。
部屋ではクーラーもつけないし、最近もまだセーターが現役だ。涼しさは快適であり、快適とは自分を不安の沼に陥れる以外の何者でもない。

マゾヒズムについて調べると、もっとその意味というのは限定されている。
被虐に対する性的興奮。あくまで元々の意味は性的な意味であり、虐げられて喜ぶという単純なものではない。
ましてや、辛い状況を好むとか、苦しい状況に追い込まれることを好むなんてものでもない。
とくに後半(ましてや、以下)は純粋なマゾヒズムとは程遠い。これらは自己憐憫とか、自己愛とか、同情によって自分が認められているという快感とか、まあつまりは「利益」を見据えてしまっているからだ。それも精神的な利益。
純粋なマゾヒズムは、利益を求めないか、もしくはもっと原始的な快感(イキそう、とか?)を求めるものだと思う。

マゾヒズムと自虐とナルシシズムは互いに繋がる、と考えていたが、ナルシシズムに繋がるマゾヒズムは所詮エセであり、それをマゾヒズムと呼ぶことこそが自虐とナルシシズムなのだ、と考えを改めた。
そう考えると、ただ苦しい状況に喜ぶ自分はマゾでも何でも無く、ただのナルシストだったのだ。なーんだ。単なる自分大好きっ子か。

因みに、マゾかどうかは本当に解らないから頭ごなしに否定も出来ない。

眠くなってきました。普通の日記にしようと思ったのに。
・この前、自分の学部の建物の屋上に登ったら久々に足が竦んだ。柵とか無いんだもん。


Date: 2006年05月19日 01:16

・足が竦む。
動くこともできない。上がること、下がること。

地上8階。戦争の大空襲でもただ一つ焼け残ったらしいそのデパートが、一番高い建物。
その街で、僕は高所恐怖症だった。

マンションのヴェランダから外を眺める。地面がそこまで迫ってくるような気がする。小さな手は汗に濡れる。手すりを手が滑って、体がすっと軽くなり堕ちる事しか、もう考えられなくなる。
ヴェランダに上がらずとも、邪な力で堕ちる所まで滑らされること、そのバルコニーが崩れることばかり考えていた。

梯子。木。ジャングルジム。
高いところまで上がる。目がくらみ、上がる事も下がる事も出来なくなる場所まで。
手を離せば膠着状態から抜け出せる。こんな思いはもうしなくて済む。
どうしてこの手は張り付いているのだろう。こんなに汗で湿っているのに。動けない。地面が迫る。ふわり。何も無い。重力。そのまま堕ちる。堕ちたらどうなる?


高低差を感じた軽い眩暈は、いつしか消えた。山にも登ったし東京タワーにも登った。高いところが、どうして恐怖の対象になろう。ごそっと抜け落ちるようにして、それでいて気付かぬうちに、姿を消したacrophobia
突然重力がなくなる、そんな寂しい気持ちを、どこかで忘れただけなのかもしれない。
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