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「 心理学 」
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・「もう3日も経ってしまっている」とか言っているが、今や週1更新が普通だ。あな恐ろし。


 Date: 2006年04月06日 22:58

・日記の最後の日。4月3日から、もう3日も経ってしまっている。

最近何故更新が無かったかというと、夜になると決まって変な気分になってしまっていたからだ。
パソコンの前に座るのは夜だけ(最近、学校が始まったので朝座れない)なので、当然更新は止まる。

気分というのは、一種の躁状態というか、ハイになるのとはまた違った気分で、身体の中の何かが亢進する感じだった。
興奮しているから何かがしたくてしたくて堪らないけれど、何も手につかない。本を開いても、紙の上にしかつめらしく並んだ文字を視線でなぞることも侭ならず、踊りだすのが自分の目なのか、インクの文字なのかが段段解らなくなってくる気がした。
だから、熱に浮かされたような感情をねじ伏せるように、早々に眠りに就いた。ここ最近、眠りは深い。

今夜はやっと落ち着いたので数日ぶりの深夜の空気を満喫している。


・今日は諸事情の為、数時間ずっと炎を見つめていた。(実験です。念のため・・・)
火の話は前に1回日記に書いた覚えがある。焚き火が昔から大好きなのだが、今は迂闊に焚き火も出来ない時代になった。少し悲しい。
ガスバーナーの炎はマンガに出てきそうな優等生みたいに一直線に上に伸びてゆく。夜の焚き火のようにゆらゆら揺れて、そのくねる影を火をじっと見る人々の顔に落としたりはしない。
でも空気の入り方によって赤から碧の溶け込んだ蒼へと変わる様は見ていて心地よい。あのまま実験室を真暗にしたら、白々と燃える指先のような炎が、ぼんやりとその周りを照らす画がそこここで見られ、慰霊祭のような荘厳な気分になれるかもしれない。
そのすぐ後で、ガラスの地面に落ちて割れる鋭い音、そのガラスを踏んでしまう鈍い音が部屋を満たすかもしれない。慌てて電気をつける。

焔、息を吹きかけただけで消えてしまうほど脆く、とてつもなく熱い、ゆらめく幻想、懐かしさ、そんなことを考えていたのかどうかは知らないが、とにかく左手の人差し指を火傷した。
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・そうか、この頃はまだ、飲食関係のバイトしてたのか。一生しないだろうなあ、もう。


Date: 2006年03月02日 02:37

人というのは、案外人の顔を覚えているものだ。顔は出てくるのに名前は出てこない・・・という事は多々あるが、逆は実際あまり無い。
あったとしたら、物凄く特徴の無い人なのだろう。でも、物凄く特徴の無い人ならそれはそれで特徴だからなあ・・・
ああ分かった。覚えていない人、というのは、忘れたくなる様な顔だったのだ。小さなトラウマだ。

人は案外他人の顔を覚えている。バイト先でも、この人は前に来たことのある人かどうかはすぐわかる。中島美嘉に思い切って似せようとしている人(そんなに失敗してないからちょっと可愛い)とか。あ、これ例外かな。他にも分かるぞ。冬の雨の日でも冷たいもの飲もうとするサラリーマン。これも例外か。

人は他人の顔は結構覚える。だからあの日、通りでマックチキンを落として、そのまま走り去った自分の顔も意外と覚えられているだろう。全力疾走したから大丈夫かな。忘れてほしい。自分は忘れられないのだから。新宿南口で落としたマックチキン・・・

・長すぎる。こういうだらだらした文は、得てして評判が悪い。


Date: 2006年02月03日 23:18

今日有った事と言えば、試験(授業に出てない科目の)と、美容院に行った事と、そこのお姉さんと話した事くらいなので、偶には内省的になるのもいいかもしれない。

「言いたい事が言えない人」という本を読んだ。
自分にとってストライクな内容なので、色々と考える。

恥ずかしがり屋の人の心の中には、基本的に「不信感」と「失敗する事への恐怖」があるらしい。
他にも、例えば親の育て方とかも原因として上っていたが、そんなことは今更言ってどうにかなる訳ではないので触れないことにする。

「不信感」と「失敗する事への恐怖」。
この二つが根底にあれば自然と積極的な行動とか他人とのコミュニケーションには無縁な性格になっていく。
そして、自分はこの二つの性格をしっかり抱えている。だからよく解る。

「不信感」を他人に対して抱くということは、実は他人が嫌いだという気持ちに由来する。それなのに他人に嫌われたくないから、自分の言動が下手をすると他人の嫌がるものになってしまうのではないか、と常に恐れる。そんな失敗を抱えていて、いつまでもコミュニケーションを取ることが出来ずにいる。

おっしゃるとおり。

例えば。ここでの日記では物凄く饒舌だが、日常生活ではあまりしゃべらない。自分から話しかけることはほぼ皆無である。
これはきっと、人に自分の話を聞いてもらえないんじゃないか、人は自分の話なんか、全く興味が無いんじゃないか、だとしたらそんなことに相手の時間を消費するのは酷いんじゃないか。といつも考えているからなのだろう。事実、それを全く思わない訳ではない。
ネットだったら、文字だったら、興味が無いと思えば読み飛ばせる。厭ならウィンドウを閉じてしまえばいい。
それなら相手に、そんなに精神的不安を与えることはない。そういった安心感が、自分を饒舌にさせる。
それは裏を返せば、日常生活では正に「不信感」を持ち続けている、という事の証明に他ならない。

何でそんなことを思ったりするんだろう?

自分の話なんか興味を持つはずがない、聞くはずがない、なんて何で思ったりするのだろう。

それは、心のソコでは他人を嫌っているからじゃないか?
自分に興味を持つはずがない、という判断は、自分も他人の話に興味がない、というところから来ているんじゃないのか。
いや、自分が嫌いなのは集合的な「人間」だ。個々の人は嫌いじゃない。と思う。そうであってほしい。

個々の人は嫌いじゃない、ということは本当に心から思っていることなのだろうか、それとも「そう思いたい、そう思わねばならない」という強迫観念なのだろうか。どちらが本当なのかは、もはやわからない。自分の中にある矛盾を、自分で証明することは出来ない。

どちらであったとしても、根っこにあるのは「失敗への恐怖」「嫌われる事への恐怖」だ。人間関係で失敗したくないから、嫌われたくないから。コミュニケーションで馬脚を現したくなくて、口に出して自分の意見を言う機会を減らす。嫌われたくないから「個々の人間は好きだ」なんて事を強迫的に思い込んだりする。

成功者はよく「失敗を恐れるな」と言う。果たして、失敗を恐れずにいられる社会がそこにあるだろうか?失敗を許容する人々がそこにいるだろうか?
この言葉を聞く度、そんなことばかり自問自答していた。

どうして失敗を恐れるようになったのか。
失敗したとき、責められたから。笑われたから。辱められたから。
そんな過去の経験を今でも引きずっているから、挑戦に対して(しかもある種の、というか、人間関係における挑戦に対して)足が竦むようになった。
実は昔から、自分はそんな失敗の嘲笑には耐えうる人間だと思っていた。人に何を言われようが気にしない、自分は自分。そう考えていた。今もそう思っている。
でも実際はしっかり受けていたのだ。嘲笑や非難という銃弾を。
「こんなのかすり傷さ、気にするな」というのは敵の銃弾に倒れたヒーローの常套句で、大抵の場合かすり傷どころか急所を貫く重傷だったりする。
ただ銃痕に目を向けなかっただけだ。歩いた後には、寂しい淋しい血液が黒ずんだ尾を長く引いている。
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