忍者ブログ
「 三日月の奥底 」
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・なぜか反響が多かった。


Date: 2006年07月13日 23:12

・人がみてなきゃ、とよく人は言う。
日本は伝統的に「恥」が「罪」に先立つ社会であり、今でもそれは変わらないと思う。
旅の恥はかき捨てだとか、人に迷惑がかからなければ何しても良い、とか、良い悪いは別にしてそういった考えは決然とそこにある。
誰も見てないよ。誰も気にしてないって、お前の事なんか。

ところが、自分にはこういう「内なる声」が全く聞こえてこない。
倫理的な問題ではない。自意識過剰でもない、まあちょっとはあるのかもしれないけれど、主要な理由ではない。
何故かって?他人を観察してしまう人間だからさ。

俺は見てる。俺は気にしてる。だから「お前の事なんか誰も気にしてない」とはとても思えない。
嘘を確信犯的につく人間は、絶対に他人の言葉を信用しない。信用しないというより、出来ないのだ。
人間というのは、自分の考えている事が他人のとは必ずしも一致しない、とはどうしても思えない性質をもち、そこはどれほどの着実で入念な教育も手の届かない所である。

街はありとあらゆる人間のサンプルを抱え込み、他人に無関心でいようとしたら目(感覚器として、ではなく、概念としての)または心のうち、少なく ともどちらか一方は閉じてしまわないと、とてもいられない。いや、無関心であろうとはしている、というと意識的に人間への興味を排除しようとしているよう で語弊があるなあ。もともとそんな知らない人の事まで代謝できるほど心に余裕が無い、とでも言っておこう。

しかし街では他人の情報が滝壷に落ちる水のように流れてくる。読んでいる本のページを追いかけてしまったり、嵌めている指輪の石の種類から誕生月 を推理したり、ヘッドフォンをつけている頭と、それがくっついている体のリズムの取り方から聴いている音楽の種類を予想したり(地下鉄に乗る人は、それが トランスやテクノである場合が多い。)、話の筋から今後1週間くらいのその人の動向に無駄に詳しくなってしまったりする。



煩悩。柴刈りから帰ってきたお爺さんのようにそれを背負っている。
朝、学校の構内のとある場所に猫が寝転がっている。この前までは横の縁石に寄りかかっていたが、最近は小道の真中にいる。「一休さん」に出てくる例の立て札が有ったら、明朝一番踏まれてしまいそうだ。
眠たそうに開いた目蓋が見せる(全く、猫って眠たそうにしていない時を見た事が無い)、あの細い瞳孔には、およそ人間なんぞ、映ってはいないのだ。他者も、時間も、名前も届かない場所。猫はひっそりと、あちらとこちらの世界を行き来している。

そういえば、猫のいる家で人が亡くなったら、その枕元に刃物を置いておく、と聞いた事がある。猫が死体を動かすから、らしい。まったくもって、この世界には煩悩のつけいる隙も無いということかニャー。
PR
■ Comment Form
Subject

Name

Mail

Web

Color
Secret?
Pass
Comment Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

■ Trackbacks
PREV ← HOME → NEXT
忍者ブログ [PR]
 △ページの先頭へ
Templated by TABLE ENOCH