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衒学衒学ゥ!
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・人はきっと、一日に話したり書いたりして発散する言葉の量が予め決められている。
古きよき時代の携帯電話のように文字数が制限されていて、
その制限より先の言葉は、世界に向かっては響かないようになっているのだ。
自分の胸にそっと響かせる、言葉の晩餐の為に。



・最近全然書く気が起きなかったのは、それが故、という事にしておこう。
もしくは、全角半角キーやTabキーの近くにあるEscキーの所為にしてもいい。



・統計学のレポートがあまりにつまらない。進まないカーソルと思考を前に、
と言うと既に書いているかのようだが実は全く手をつけていない。
橡は人生や世界に対して極めて肯定的な人間なので、やる気になった時点で半分は成し遂げられたようなものだ、という考えを持っている。だからスタートラインを跨いでもいず、全く何も出来ていない内から、もう半分出来たとうそぶいてみたりするのである。その楽観さたるや、否定と悲観のアスファルトに生える一輪のタンポポのようだ、と半分くらいの人人には言われている。

進まないカーソルと思考を前に、段々体のあちこちがむず痒くなってきてしまったのを何とかしようとして、まずは難解極まりない統計学用語に「恋の」を付けながら資料を読む事にした。そして全く違う世界を垣間見、味わった事の無い感覚の甘露に溺れる事となった。


ある種の用語に「恋の」という3文字を付けることで、死ぬまでに一度は言ってみたくなれる程の羞恥に満ちた言葉になる。
こんな事を目の前の相手に言ったらどんな破滅、どんな終焉が待っているのだろう。しかし時に人は、理性や論理や、はては本能からでさえも目を瞑りたくなるものだ。誰しも夜の校舎の窓ガラスを壊して歩きたくなったりする逢う魔が時を経験する。

そんな言葉は、たとえば「恋の95%信頼区間」や「恋の相関係数」であったりする。
しかし「恋の重低音」だの「恋のミクル伝説」だのよりはだいぶマイルドであると感じるのは自分だけでは無いと思われる。現実は怖ろしい。



恋愛とは、どんな意味も超えてゆくものである、と誰かが言ったかもしれない。
誰も言わなかったのならば、これから誰かが言うだろう。したり顔で。

そんな言葉は、たとえば「恋のスチューデントt検定」「恋のロジスティック回帰曲線」「恋のノンパラメトリック解析」であったりする。
そこにもはや意味も目指すべき点もなく、ただ抽象の地平線が遥か6000マイルの彼方まで広がっている。つまりは理解が出来ないということだ。
しかし、ここでも現実は「恋のマイアヒ」とかいった鋭い刃で、空想と鍔競り合いを始めてしまう。



ここまで考えて、初めてこの作業が不毛だと知る。
しかし、水のある都会で枯れてゆくサボテンが居るように、そこが不毛の地でない事に安堵してはいけない。ある行動、思考が不毛であるか無いかというのは、誰に決められるのだろうか?人間の禿の定義はあるとしても、だ。
どんなに不毛、と言われても、必ず誰かが一筋の毛を見つけてくるはずだ。嫁いびりに興味の全てを傾けるひたむきな姑のように。
毛に姑とは美しくない譬えである。美しい、それこそ不毛で意味の無い事なのだろうか?美しい恋とは天上の恋だと言うこともあるし、真実の恋ではないと言うこともある。ただ、美というものは第3者、いやもっと当事者から離れた第30万者くらいでない限り、その価値がぶれ続ける。光に目が眩むあまり、暗闇に包まれて、あなたも私も、それが何であるかを知らない。Double-blind。二重盲検試験。
「恋の二重盲検」、これだけは許せそうな気がした。
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・「およげ!たいやきくん」の歌は、鯛焼きのモノローグから始まる。
 自分たちは毎日毎日、鉄板で焼かれて嫌になってしまう、という内容である。
初めてこの歌を聞いた時は歌詞をそのまま受け取ってしまい、「鉄板で焼かれる」という事が「毎日」反復される事を憂いていると思っていた。
「毎日毎日、継母に虐げられながら奴隷のように働くのは嫌になっちゃうわ」という具合に。

しかしよく聴いてみるとそれでは違和感を感じる。その鯛焼き(歌っている鯛焼き)にとって、「鉄板で焼かれる」のは一回しかないはずだ(衛生面に対する常識的な配慮がその鯛焼き屋にあれば)。鯛焼き全体で見れば焼かれるのは毎日の事であるのは確かなのだが、それは例えば自分が、「人間は毎日の様に死んでいくから嫌になっちゃうな」と歌うのと同じで、何かがおかしい。

この違和感はどこから来るのか。鯛焼きが嘆いているのは「辛い事(やはり鯛焼きでも鉄板で焼かれるのは辛かろう)の反復」ではない。全ての鯛焼きが等しく辿らねばならない終わり、いわば「宿命」とでもいうものである。 人間は恐らく有史以来ずっと自分の宿命について嘆き続けてきたし、毎日おびただしい数の鯛焼きが餡を詰められるのだからその中で自分の運命を憂う鯛焼きが出てきてもおかしくは無い。
となると、感じた違和感の正体は、「自分の宿命を、あたかも出来事の反復を倦む時のように嘆く」事に対する違和感だったという事になる。



・それに続く歌詞では、遂に堪り兼ねたその鯛焼きが鯛焼き屋の主人との諍いの果てに、鯛焼き屋を脱出して海に逃げる。 鯛焼きが我慢ならず、逃げ出したかったのは「日常」からではなくて「宿命」からである。それは、シンデレラが継母の家から逃げ出すのとは訳が違う。宿命を星に擬えることがあるが、それは星空のように世界に蓋をし、またどれだけ歩き続けても同じ場所で輝きを失わないからだろう。

はじめて泳ぐ海の底は、えもいわれぬ心地よさを湛えている。
お腹の餡は、拭える事の無い運命の重み。
屋台の隅で灼熱の大地を待つ事と、青い海に身を横たえる事の間には大きな違いがある。
しかし、もう少しも泳がないうちに皮は水でふやけるだろう。どこにいても、辿り着く先は同じだった。

この場所から逃げ出すのは、どこかへと出られると思っているから。
ここよりも、少し広いところ。そして、ここと全く同じところ。
・あまりにもの分かりが良すぎるというのも、時には考え物である。


つけ麺屋に入った。
麺の量を増やしても値段が変わらない、甘美なシステムが日本を覆いはじめているような印象を最近受ける。実にうれしい。
お陰で今や、大盛りの量がスタンダードだと勝手に認識してしまい、並盛が運ばれてきたときにはそのしとやかな佇まいに、これがわびさびというものなのか、と失われつつある和の心を勘違い甚だしくも見出したりしている。


注文を待っていると、席1つ向こうで男女が何やら話しているのが聞こえてきた。
男は片言の日本語を巧みに操り、こちらに背を向けて女に自分の考え、まあ主に恋愛観なのだが、を話していた。
決して静かで無い店内で、隣でもなく反対側を向いたその声が聞こえてきたのは、彼らの会話が弾んでいたからであり、その会話を月世界の鞠のごとく弾ませていたのは、傍らの女の打つ相槌だった。


「あーそうそう!うんうん!わかるよ~」
「だよね~わかるわかる!」

(repeated ×2 くらい)


男!弾幕薄いよ、何やってんの!
男と自分の間の空席に人が座った。集中しろ。今ならカウンターの隅に爪楊枝が落ちても分かる。
もしここに土俵があったら、両足であの周りの綱を踏んでいるであろう男は相変わらず遠距離恋愛についてなんて語ってしまっている。
こういう話題は、一旦話しだすと止まらないものである。だが心配することはない。こっちは大盛りの更に上を行く「特盛り」なのだ。(100円増し)


観察結果から導かれる数々の可能性について考察したり、麺の柔らかさに一抹の不満を感じたりしながら、いよいよ長い一本道も佳境に差し掛かる頃。

「2年前だったら、付き合ってたかもしれないね~」


!!
すいません、割りスープください。


もの凄く良く響く声で店員を呼んでしまった。こんな声を自分の声帯が奏でた事に驚き、思わず立ち上がった事への羞恥も消し飛ぶ程だった。

しかし、その後会話は本当に日常の、他愛もない方向へ流転していった。
この醤油味のスープのしょっぱさが、閉ざされた空間とちっぽけな自分の心の全てを鮮やかに描いているような気がして、しょっぱかったら言ってくださいねと言った店員に再び声をかける事なんて出来るはずもなく、薄いサテンの端が床に触れるほどの音も立てずに店を出た。
・この記事はスピッツのアルバム「フェイクファー」のジャケットの女の子への愛と固執を綴るものです。気持ち悪い奴、青い地球の為に消えろ、って詰るといいよ。

 ・仕舞ってあった「フェイクファー」を回したら再生できなくなっていた。CDというものは、外見から内容の全貌が解らないだけに仕舞ってあるものを無性に再生したくなるものだ。時たま。

裏返す。
 CDの読み取り機構を知っている人は多いと思うので詳しく説明はしないが、とにかくあのミクロな溝が台無しになるのに十分なほど蹂躙されていた。 円盤状のものが空しく高速回転する音を追い越して、頭の中では1曲目のメロディが流れ始めたが、電気を消して眠る事にした。2曲目が解らないからだ。

そして昨日の夜遅くに借りてきた。買う気にまではなれなかった。最近どうも疑心暗鬼になっていけない。慎重さ、というより吝嗇が、熱望を手懐けた。

このアルバムはどんな宝石よりも価値がある。曲ももちろん素晴らしいが、ジャケットの女の子が本当に素晴らしい。 熱望を上手く飼いならしたつもりでいるお粗末な慎重さも、今に負けていくに違いない。 フェイクファーのジャケット(こう書くとまるでそんな服があるみたいだが、今はその話はしていない。CDの表紙の写真の話)を知らない人は後学の為に今すぐこのページを閉じて検索するべきだ。そして、全ての絵画や彫刻と同じく、実物を見るのが最もよい。


きっと、彼女について人に尋ねたら、皆が皆可愛いね、と言うだろう、つまり全く奇を衒ったものではない。ここでどうして、この人に対してありふれているとかいないとかいった話を始めるかというと、そうやってただ可愛いから好む、というような愛玩的感情だけを持っているわけでは無い、と言いたいがためである。もっと特異的なものだ。それは錨がどすんというくぐもった音を響かせて静かに沈むように、心の海の奥底に昔から居座り、半年おきくらいにその先端から毒のようなものをちろちろ出しては心を疼かせる。



・そんな妄想を繰り広げるうちにもう5曲目だ。


 「いつも仲良しでいようねって言われて
 でもどこかブルーになってた
 あれは恋だった」
 (『仲良し』)

こんなリアルな言葉がほしい。



・彼女の居るところ。そこに行き着くには、生きていても死んでいてもだめで、初夏の細やかな日差しとか肩までのショートが揺れる横顔の向こうとか、そうした幽かで満ち足りた空間に扉を見出すしかない。
その奥に、いる、写真のように褪せない女の子が、少し首を傾げて微笑む。
・目の前に座っていた男は、血走った目で車内を嘗め回していた。


その視線の動き、凡そ人間には聞き取れない音で何かを囁き続けるその口元が、手にした本のページに並ぶ小さな文字の向こうに見えた。
それでも文字の百鬼夜行を辿っていると、不意に衝撃を感じて現世に引き戻された。

男が持っていた傘の柄から手を離したのだ。傘は不思議な力で前に倒れ、衝撃は傘の柄が大腿部に当たったものであるらしかった。
本を2センチほど手前に引いて男を見つめる。
男は、今初めてそこに人間がいる事に気付いたかのようにこちらを見上げた。
そして男は、謝る代わりに自分の頭の上にある本の背を凝視した。血走る目を更に瞠って。

その時読んでいた本はベケットの「マロウンは死ぬ」だった。
男の視線のブラウン運動が止まる。
もしかしたら、この男がマロウンなのかもしれない。
ちょっと待て。まだ死ぬところまで話が行っていない。


暗闇をひた走る列車は終着駅に着いた。
男は初めて聞き取れる声を上げて席から立ち、出口へと向かった。
終着駅。全員が降車し、全員が乗車する駅だ。
雑踏に飲まれるうち、男を追い越したのか、
彼がどこに行ったかを、僕は知らない。
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プロフィール
HN:
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1985/11/25
職業:
自由人
自己紹介:
麒麟さんが好きです。
でも象さんはもっと好きです。

やっぱり麒麟さんが好きだ。
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