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「 逃避行 」
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・「およげ!たいやきくん」の歌は、鯛焼きのモノローグから始まる。
 自分たちは毎日毎日、鉄板で焼かれて嫌になってしまう、という内容である。
初めてこの歌を聞いた時は歌詞をそのまま受け取ってしまい、「鉄板で焼かれる」という事が「毎日」反復される事を憂いていると思っていた。
「毎日毎日、継母に虐げられながら奴隷のように働くのは嫌になっちゃうわ」という具合に。

しかしよく聴いてみるとそれでは違和感を感じる。その鯛焼き(歌っている鯛焼き)にとって、「鉄板で焼かれる」のは一回しかないはずだ(衛生面に対する常識的な配慮がその鯛焼き屋にあれば)。鯛焼き全体で見れば焼かれるのは毎日の事であるのは確かなのだが、それは例えば自分が、「人間は毎日の様に死んでいくから嫌になっちゃうな」と歌うのと同じで、何かがおかしい。

この違和感はどこから来るのか。鯛焼きが嘆いているのは「辛い事(やはり鯛焼きでも鉄板で焼かれるのは辛かろう)の反復」ではない。全ての鯛焼きが等しく辿らねばならない終わり、いわば「宿命」とでもいうものである。 人間は恐らく有史以来ずっと自分の宿命について嘆き続けてきたし、毎日おびただしい数の鯛焼きが餡を詰められるのだからその中で自分の運命を憂う鯛焼きが出てきてもおかしくは無い。
となると、感じた違和感の正体は、「自分の宿命を、あたかも出来事の反復を倦む時のように嘆く」事に対する違和感だったという事になる。



・それに続く歌詞では、遂に堪り兼ねたその鯛焼きが鯛焼き屋の主人との諍いの果てに、鯛焼き屋を脱出して海に逃げる。 鯛焼きが我慢ならず、逃げ出したかったのは「日常」からではなくて「宿命」からである。それは、シンデレラが継母の家から逃げ出すのとは訳が違う。宿命を星に擬えることがあるが、それは星空のように世界に蓋をし、またどれだけ歩き続けても同じ場所で輝きを失わないからだろう。

はじめて泳ぐ海の底は、えもいわれぬ心地よさを湛えている。
お腹の餡は、拭える事の無い運命の重み。
屋台の隅で灼熱の大地を待つ事と、青い海に身を横たえる事の間には大きな違いがある。
しかし、もう少しも泳がないうちに皮は水でふやけるだろう。どこにいても、辿り着く先は同じだった。

この場所から逃げ出すのは、どこかへと出られると思っているから。
ここよりも、少し広いところ。そして、ここと全く同じところ。
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