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「 未選択 」
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・この靴もついに先日ご臨終に。底がべろーんと抜けた。


Date: 2006年09月14日 02:01

・履いている靴の紐は解け易い。
玄関で紐を片方ずつ両手に持って絞る。靴が弛緩する前に急いで2本の紐を交差させ潜らせ輪を作り・・・完璧な結び目が先端だけをジーンズの裾から覗かせている。足を踏み出す度、地面に触れる度に感じる密着感が心地よい。

蜜月は長くは続かない。気がつくと紐は靴の横にしなだれている。紐の先端が靴に当たって高い音を静かに立てる。立ち止まって絞る所からまたはじめる。こんなに何度も紐を結ぶのは、今度の靴がはじめてだ。

想像する。きっと強く締めすぎているのだ。歩く毎に靴と足が少しずつずれて緩んでゆくのだろう。最初から緩めに結べば解ける心配も無いのだろうか、でも緩めに結んだら逆に解け易くなるのではないか、それに恐らく靴と足の動きが上手く同調せずに苛立つだろう。
そして、また立ち止まる。屈んで強く紐を引く。鬱血しそうだ。少しだけ解く。解けるかもしれない結び目を今度も手早く作る。

自分の行動に意味を持たせようと過度に気を配ったり、常に自分にとってプラスになる行動を心がけたりする人があまり好きではない。
なぜなら、そういう人は往々にして、自分にとって意味の無い事、不利益になる事はしないからだ。
でもそういう人は、きっとうまくいく。意味のある行動に徹しきれない自分は、ただ嫉妬しているだけなのかもしれない。


雨の日。くるぶしに優しさを感じて立ち止まる。靴紐はしっとりと濡れていて、触るのに少し躊躇う。おまけに、両手で結ぶから傘を差す事ができな い。靴紐を解けないようにする方法はあるはずだ。屈んで足先に蝶々結びを作るのは最早儀式になっている。儀式とは形式だ。形だけの行動だ。
だからこの靴が気に入っている。
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・ねこの写真集ほしい。


Date: 2006年08月10日 02:14

・子猫は可愛い。毛の生えた動物は概ね嫌いだけれど、唯一許せる存在が子猫だ。
因みに、[毛の生えた動物]という括りにおいて、毛量の基準は人間である。犬とか猿とか羊とか馬とかは人間より明らかに毛が多いから生理的に無理だ。
何故基準を人間にしているかというと、人間は万物の尺度である、だなんて古代ギリシャ人ぶる気はさらさら無く、そうしておかないと人間も毛が生えているからダメなのかと思われ、皆から無視されて悲しい日々を過ごしかねないからである。

そこら中をひっかきまわし、舐めたり手を出したり匂いを嗅いだり、偶に狩猟体勢のマネをしてみたり、飽くなき探究心が身体全体から発散されている ようで微笑ましい。と同時に、こいつもあと数年すれば太って動きものっそりして、くだくだと眠るばかりになってしまう事に気付くと、洗面器に張った綺麗な 水に血が滴り落ちていくような寂しさを感じてしまう。
けれど、永遠に子猫のままで時を止めてしまったら…猫科なのにあんなにつぶらな眼差しを、何百年も振り撒き続ける事を考えると胸が痛む。永遠とか恒久には、幸福や価値といった類のものは見出せないようになっているのかもしれない。
変わってゆく寂しさも、在り続ける悲しさも、なるべく遠くに置いておきたい。猫を飼う気が全くおきないのは、そんな我儘による。
・虫はダメなのに、今日は大学で虫についての授業を受けた。


Date: 2006年07月13日 05:51

・分類学上では蝶と蛾の区別が無いという事は有名な話である。
(どちらも「鱗翅目」に属していて、これは蝶や蛾を触った事があればまあ頷けるネーミングだ)
でもいつの間にか、蝶には肯定的、蛾には否定的なイメージが付き纏っている。蝶は色も鮮やかだし、花の間をひらひら舞ったりしてみせるから外見は いい。一方の蛾はというと、色も大半は茶色やくすんだ色をしていて、舞うというよりもバタバタともがきながら光や人間の方に寄って来たりして、明らかに第 一印象はよくない。

実家は網戸の無い家で、最近のような夏の夜は窓を開け放す。蚊取り線香をものともしない蛾は部屋の中に入ってきて、電灯の周りを忙しそうに跳ねたり、そこから下がる紐を上ったりする。
光ある所には熱がある。光に魅せられた挙句、熱に曝された蛾は、蟲も控えめになる秋ごろに掃除される。

たまに、電灯の近くの天井にじっとその翅を休め、動かなくなってしまう蛾がいる。朝になって電気が消えてもそこにいる。夏がどんどん過ぎても翅の一枚も動かさず、もの言わぬまま秋を迎える。
そんな、夏の残り香のように貼りついた蛾は、不思議なことにその砂色の翅が青みがかって、光とうまく気が合えば玉虫色に見える事もある。

明るい人を好む自分が蛾に見える事がある。ある夏の日、電灯の傘から漏れる光に張り付く蛾は、単に死に場所を探していただけなのだろうか。それとも、ただただその光に浴していたかったのだろうか。夏が終わり、秋が来る事も知らないで。
・面白い試みだが続かず。


Date: 2006年07月03日 05:30

・何もする気が起きなかった休日だった。そんな昨日の一日。

7/2

2:00   おきる
4:00   ごはん
7:00   そうじ
10:00   がいど
14:00   りぶろ
16:00   かふぇ
18:00   まんが
19:00   ねむる

7/3
4:00   おきる

「レポート」は4文字だからしませんでした。
母性
・母の日は土曜だと思ってた。1日フライングした。


Date: 2006年06月28日 21:49

・子供は親、特に母親は絶対に選べない。
この世に生れ落ちる前でさえそうなのに、生まれた後も母親は、この世でお前の母親はただ一人しか居ないと繰り返し、選択の目を閉じさせる。そして子供は、自分の引いた籤には逆らう事が決して出来ない事を覚える。

母親は子供にとって創造主であり、全知全能の神であり、死神でもある。どんなに強い心を得たとしても、母の呪縛のヴェールを破る事は困難を極める。もがけばもがくほど体は汗ばむ。湿った肌にヴェールが貼りつき、絡む。

ひどい母親を持った子はどんな子よりも悲しい存在だ。しかし、その子は気付かない。世界は閉じているから。その重い扉をぴったり閉めているのは母親、そしてその子自身である。取っ手を持った2人の手が触れ合う。母と子は互いを見つめ微笑む。幸せそうに。

ひょっとしたら自分の趣味が偏っているかもしれないが、自分の読む現代アメリカ作家の本には、バカな母親が頻繁に登場する。
その母親は大体ヒステリー持ちで、子供の話を聞いているようで実は一つも聞いておらず、だから子供との会話は常にちぐはぐである。子供を独占したがる。女郎蜘蛛が糸を伸ばすように、いつもありとあらゆることを悩んでいる。
しかし、子供を愛するそぶりを見せるから、子供は安心しきってしまう。

「代理によるミュンヒハウゼン症候群」という病気がある。自分の周囲に人々の関心を寄せる為に、自分に近い他者をわざと傷つけたり、病気や怪我を 捏造したりする症状である。言うまでも無く子供を持つ母親に見られる。捏造した病気を献身的に介護する演技を通して、いい親と認められたい、同情を買いた いと願う。
これは病気だ。病気は「原因と症状がある程度はっきりしている」から病気になるのであって、病気にならないが、しかし深刻な水面下の悪意は確実に存在する。
母親がわが子を思うのは、本当にその子のことを思っているからなのだろうか?自分の為、とは言えないだろうか?

小さい頃、よく「この人は本当の母親ではない、実の父ではない、どこか知らないおじさんとおばさんなんだ、本当は」と考えた事がある。引き出しを ひっくり返し、出産直後の写真や、新生児の足につけて取り違えを防ぐベルト(母親の名前と生まれた時間が書いてある。そこで、午前7時41分に産まれた事 を知った)を見ても、まだその「本当の親かどうか」という疑いは不思議と生き残り、以後長きに亘って自分の心に巣食うこととなる。

親にとって必要なのは何だろう。血の繋がり?産みの痛みの共有?子供を理解すること?子供にとって最善であろう道を指し指し示すこと?啓蒙?愛情?

残念ながら、全てピンとこない。色々な親が居て、色々な子供が育つ。ずらっと並んだ数百枚の、オートロックのドアの前に立つようなものだ。一旦出ると鍵がかかってしまう。しかし、どの扉を通っても、どこかに出る事は出来る。
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