・朝、髭を剃っていて、鏡を見ながらふと我に返るとジョジョ立ちをしていた。
・「『ポイントカード』という言葉を一瞬でも口走ったら、おまえの魂をもらう」
とプリントされたTシャツを着て買い物に行く事を真剣に考えた。
・その実直な男はサングラスをかけていた。
真面目さを絵に描いたような男だ。
鑿と槌で体を彫って中からものさしが出てきたとしても全く驚かないだろう。
絵に描いたような、という言葉は比喩ではない。
外見からして真面目だ。
5月も後半になると、梅雨前の夏の予行演習の様に、
日中は日差しが照りつける。木々の葉は爽やかな翠を照り返し、
眩しくも優しい光を湛えている。
その日も日差しの強い日だった。
そんな日中にサングラスをかける事は至極当たり前の事なのだ。
しかも大門のような大きいサングラスは、紫外線への十分な対応を示している。
なぜだろう、それなのに、このかき乱される心は。
レトロスペクティブなサングラスをかけた男は、
いつも向こうの席に見えるお馴染みの実直な男から、
正体不明の実直な男になっていた。
擾乱の直中にある心を隠しながら会釈したことが、
正しい事かは解らない。
あの男の骨格、あの男の服装、
なのにこの人には、会った事が無かった。
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・「機能が一つしかない、それを使って一つの事しか出来ない」物を見ると、無性に泣きたくなってしまう。
判り易くする為のささやかな努力として、バナナスタンドの話をしようと思う。
ちなみに、今日この後には飲み会が控えている。しかも19時から。
・バナナスタンドとは、その名の通りバナナ用のスタンドである。
高校生の時、行きつけの100円ショップで発見した。余談だが、高校生のとき、大学生(成人)になったら「行きつけのバー」を作ろう、とぼんやり考えていた。今でもその思いは忘れていない。
バナナスタンドの箱にはバナナスタンドのイメージ図が描かれていた。
電気スタンドを一回り小さくしたような形状で、ちょうど電球の先が来そうな部分にフックがついている。
それにバナナの房の根元を食い込ませ、ぶら下げて使う。
そう。これでバナナスタンドの使い方は終わりである。バナナスタンドは立派に使命を果たしたのだ。バナナをぶら下げる事で。
青春時代のまっただ中に居る少年には、店の中で泣き出すくらいなら喉を掻き切って死んだほうが易しいだろう、だから黙って店を出た。
本当にバナナを吊るす事しか出来ないのだ。サイズからいって、後吊るせそうなものは大きめのぬいぐるみや人形の服くらいしかない。バナナを引っ掛けた時に形良く見せようとしすぎたのか、孫の手代わりに背中のかゆい処にフックが届いたりもしない。
バナナを掛けるためだけに生まれてきた存在。しかも更に悪い事に、バナナは自然の状態で既に木に吊るされているのだ。つまりバナナスタンドは特に新しい発想の下生まれた訳ではなく、言ってしまえば「自然の模倣」に過ぎない。
・話をここでバナナスタンドから戻すつもりだが、飲み会の時間が迫っているので一時中断する。記憶がアルコールに負けなかったら続く。
・試写会に行ってきた。
試写会、ほのかなセレブレティを感じさせる言葉だ。実際はただ抽選で当たった人々が、平日の夜に集まって映画を観るだけのこと。別に「あなたに、他でもないあなたに来てほしい」と言われた訳ではない。
映画は「主人公は僕だった」。原題は "Stranger Than Fiction" で、響きとしてはこっちの方が好きだ。
話題の映画だから荒筋はどこでも紹介されていると思う。なのでここでは省く。
作中でも言われるように、物語というのには「喜劇」と「悲劇」がある。
自分は「悲劇」に心を震わせられる種類の人間だが、この映画で初めて「心温まる」系の映画で感動してしまった。スタッフクレジットを全て観ていたのは、エンドロールや、その後ろに流れる曲のセンスが秀逸だったから、だけではない。
試写会は大抵、「n組 2n名様ご招待」という形式をとる。応募したことを忘れた頃にポストに腰掛けていた封筒にも、2人分のチケットが入っていた。
そう、想像はつくかもしれないが、迷った挙げ句独りで行く事にした。独りでなければ、地下鉄を乗り継いで会場近くの有楽町駅で降りた事だろう。態々東京駅で降りて(学校から行ったので乗り換え無し)、上映ギリギリに会場に滑り込み、非常灯の近くしか席が空いていない事に少しがっかりする、なんて酔狂な事はしないだろう。
しかし、観終わった後は独りでいいと思えた。こんないい映画、人にタダで観せるのは惜しい。19日から公開なのでぜひ観てください。お金を払って。
・帰り道、東京国際フォーラムを抜けて歩くとき、
「東京の夜はいいね。きれいだね。」
「そうだね。」
と、会話を交わす50代(推定)の夫婦(これまた推定)を見た。
30年。多くの観客が外へと出て行く、十数分間のエンドロールよりも遥かに長い。
30年も経てば街並みも変わってゆく。自分の姿ももっと変わってゆくだろう。緩やかに。その大河の勾配のような変化を「日常」と人は呼ぶ。
「日常のささいな事にも、崇高な意味があるのだ」
・また夢の話だ。現実が嫌だったんだろうか。
Date: 2007年04月16日 10:31
・まだ覚えているから、一昨日に見た夢の話をする。
・カニバリズムの夢を見た。カニバリズムといっても内情は複雑らしく、宗教よろしく2つの流派に分かれている。骨は残す流派と、骨までしっかり食べる流派とに。両派はどうやら争っているらしい。
橡は、砂漠に豪奢な宮殿を構える、骨は残す派のオッサン(宮殿のメインストリートには人骨が延々と並んでいる)の命を、骨まで食う派の2人組(ものすごく美しい女性と、そのまた美しい娘)から守るのだ!
・一層解らない。ただ一つ言えることは、橡の夢には何かしら女性(味見をする女の子、押入れにいたお姉さん、カニバリストの母娘)が出てくるという事だが、これではただのアレである。中学生か俺は。
・楽しみにしていたのに、昨日は夢を見なかった。酒の所為か・・・
・夢の話。これはネタが尽きないからいい。覚えてさえいれば。
Date: 2007年03月29日 08:44
・さっきまで見ていた夢が久々に酷いものだった。
料理を作っていたら知らない女の子が味見をしにきた。
スープを一口飲んで彼女が言った言葉は、
「まずっ!?・・・・・下品・・・・」
不味いのはまだ良いとして、味が下品なのはなんだか今さらどうにもならないような気がして、心に鋭い痛みを感じた。思わず目覚めてしまうほどに。