・訳有って、ここ数週間で膨大な量の事柄を記憶しなければならない事になった。試験を受けるのだ。
・学生の仕事といったら暗記である。見て覚える人、音読して覚える人、暗記の方法は様々あるが、自分の場合は「書く」という作業が暗記のための作業であり続けている。
ただ本を読んでいるだけでは寝てしまうし、音読するのは恥ずかしい。赤い文字を赤フィルターで隠して、というのも暗記の常套手段だが、頑張って目を凝らすとうっすら見えてしまうのが難点である。ひとたび意識し始めると目を凝らす必要さえなく文字が浮かび上がってくるから不思議だ。
だから書く。ひたすら書く。目で読み取った情報をそのまま別の紙に写す。書いているのは後で見返す為ではないから、関係のない情報を箇条書きで羅列する。アンダーラインを引くのも、今ここで下線を引いて強調しているという事を意識の襞に刻み付ける為だ。
2週間でボールペンを3本使い切る。昔何かの雑誌で、ボールペンで直線を引き続けたら、インクが無くなるまで引ける線の長さは約1kmだった、という記事を読んだような気がする。ボールペン3本分でどこまで行けるか。自分の実家から、通っていた高校までの距離に相当した。自転車で毎朝15分とかけずに登校していた。
・いつか高校の英語教師が言っていた。書け。紙でなく、脳細胞に書け。脳はまるで豆腐のようだが、それはほとんどがグリア細胞というものから成っていて、これは脂肪のようなものであるから柔らかい。そこに書く事は一筋縄ではいかないので何回も書く。時々見返して、捨てる。再び書く。同じ事も書く。20歳を過ぎて死に向かう脳細胞の代わりに、B5の紙が分裂をはじめる。
・図書館の一室で書いていると、どこまでも行けそうな気がする。体はここから動かす事はない。しかし紙の上の端から、左から右へ、時には上から下へ線を引き、下の端までインクで染みをつけ、裏返して同じ事を繰り返すと、もうお終いだ。次の紙に移るしかない。ペンが移動するのは僅かに数十センチ。自分がハムスターになって、終日回し車を回しているみたいだ。この部屋の天井は高く、はるか向こうに本の背表紙の金文字が光る。
・ケルアックのように、どこまでも続く紙に書く事にした。トレーシングペーパーという、聞くだにヴィヴィッドな物は見つからなかったのでファクスの感熱紙を買ってきた。今ファクスを使う人はどのくらい居るのだろう、なかなか心躍らせる機械だと思うのだが、あれは。しかし問題点があって、試験まであと2日強しか無いという事である。気付くのが遅すぎた。4日前くらいにこの発想には思い至ったのだが、ファクスの感熱紙がロール状だという事にはゆめゆめ思い当たらなかった。今日ペットボトルの緑茶を手に取り、そのまま生活用品のスペースに足を踏み入れるまでは。ようやくペットボトルの飲み物を部屋で常飲しようと思った頃だ。
春がやってきたと思う。